column “親密さ”へ帰る音楽
願わくば奉仕の心がわたしたちを悲観主義や敗北主義、人生は無駄であるという思い込みから守ってくれますように。そして人生を豊かに見る目を養ってくれますように。
ホセ・アントニオ・アブレウ(1939-2018)
現代のクラシック界に、彗星のごとく現れた二十代半ばの指揮者グスターボ・ドゥダメル。彼はベネズエラの『エル・システマ』第一期生の一人であった。
1975年に、ホセ・アントニオ・アブレウ博士によって“ベネズエラ国立青少年オーケストラネットワーク”通称『エル・システマ』は創設された。
『エル・システマ』とは、子どもたちが無料で楽器を借りて習うことができ、無料でオーケストラに参加できる音楽教育プログラムである。ベネズエラで参加者40万人、世界でも35ヶ国で実践されている。
ベネズエラでは貧困と治安悪化が大きな問題になっており、貧困から犯罪やドラッグに手を出してしまう子供たちも多い。そこでアブレウ氏は『犯罪やドラッグを手にするより、楽器を手にしよう』と考えた。
彼はこう言う。
「平和を守る最も有効な手段の一つは、音楽によって調和の世界を広げることだと思います。音楽は人々の心に灯をともし、一体感を生むことができます。兄弟愛、和解、共生など、高い精神性を育む究極の方法です」
「音楽は社会の発展の要因として認識されなければならない。なぜなら最も高度なセンスにおいて音楽は最も高度な価値、連帯、調和、相互の思いやりと言ったものをもたらすからである。そして音楽には全共同体を統一させる能力と崇高な感情を表現することのできる能力があるのだ」
「愛情の至高の形は奉仕です。…願わくば、奉仕の心がわたしたちを悲観主義や敗北主義、人生は無駄であるという思い込みから守ってくれますように。そして人生を豊かに見る目を養ってくれますように。…私たちが基本原則として子どもたちに教えたいのは、奉仕の精神と音楽を敬う気持ちなのです」
『エル・システマ』は、クラシック音楽を特権階級の文化ではなく民衆のものにした。そして階級の違いも、人種の違いも、貧富の差も関係なく、子どもたちに平等に音楽に触れる機会を与え、情熱さえあれば将来立派な音楽家になることもできる、そのようなビジョンと夢を彼らに与え、彼らを貧困による機会喪失、人生の絶望感、犯罪に手を出すことから守ろうとしたのだ。
さらに、音楽の合奏をすることによって、子どもたちは他の人と物事を一緒にすることを学び、思いやり、チームワーク、規律、責任感などを学んでいく。
そして何より、音楽の素晴らしさを知り、音楽を皆とともに分かち合う喜びを知ることができ、それが彼らの生きる喜びにつながるのだ。
『エル・システマ』のことを知ったとき、子どもの頃のことを思い出した。
貧困と犯罪に苦しむベネズエラの子どもたちと自分とはまったく境遇は違うが、僕も子ども時代に音楽と出会えたおかげで救われた。
思春期に、孤独感と疎外感、存在の危機に襲われたとき、音楽と出会わなかったらどうなっていたかと思う。
たとえ単なる現実逃避だと言われても僕にとって、音楽を聞くこと、音楽を演奏する夢を描けたことは暗闇の中に輝く唯一の光だった。
音楽があったおかげで、自分を見失いそうになったときに見失わずにすんだし、こうやって何十年も心の平和を守ることができているのだ。
遥か海の向こうで『エル・システマ』によってオーケストラが社会を変える力になり、若者たちの生きる力になろうとしている時、日本では作曲家、久石譲がクラシック音楽の危機感を募らせていた。
現在の日本では、クラシックそしてオーケストラの聴衆は高齢化し、それは限られた人々だけが鑑賞する“古典芸能”になりつつあるからだ。
彼は雑誌「考える人」のインタビューでこう話している。
「いま僕が一番考えているテーマは、オーケストラの現状、それを未来につなげるにはどうしたらいいのかということです。現在のオーケストラは問題を多く抱えている。何より収益性。オーケストラだけのギャランティから言うと収支は合うかもしれないが、練習場や移動費などの諸経費を考えあわせると全くペイしない」
「…最終的に僕が言いたいことは一点。クラシックが古典芸能になりつつあることへの危機感です。そうでなくするにはどうしたらいいかというと、“今日の音楽”をきちんと演奏することなのです。…文化を培うことは、確かに難しい。加えて、日本が抱えるもうひとつの問題は観客の高齢化です。高齢者の多くは、コンサートに知的な刺激を求めているわけではない。だから、ますますプログラムが保守化する。…僕が今一番思っているのは、『アートメント』をきちんとやろうということです。アートとエンターテイメントを組み合わせた言葉です。知的な喜びを、もっと日常にするということ」
久石譲がフェルメールの絵画を題材にした曲を作る際に、古楽器演奏家の須藤岳史氏と対談を行った。その時に印象的なことを話していた。
久石が須藤氏にこう聞いたのだ。
「フェルメールの時代、17世紀の音楽が持っていた世界がありました。(古楽器である)ヴィオラ・ダ・ガンバも含めてね。そしてこの後、近代的な楽器が登場して、いわゆる我々が言う西洋クラシックの歴史が始まりますよね。一番失ったものって何ですか?」
「“親密さ”ですね」
須藤氏によると、西洋クラシックの歴史が始まるまで、17世紀の古楽器の時代では、音楽は宮廷で演奏される特別なものでも、多くの聴衆の前で選ばれたプロの演奏家がステージで演奏するものでもなく、自分の家で少数の客人に余興程度に演奏して楽しむ極めてプライベートな、アマチュアのものだったのであり、当時の音楽には生活と切り離すことのできない『親密さ』があったのだという。
ベネズエラの音楽教育『エル・システマ』がオーケストラを特権階級のものから、民衆のものに変化させたことにも象徴されるように、現代の音楽はどんどんボーダレスになり、階級的な壁がなくなり、今まで交わることのなかったものと融合を繰り返し、より身近なもの、生活に寄り添ったものに変わろうとしているのではないか。
そして、クラシックやオーケストラなどこれまである種、特権階級的な音楽といわれたものが『親密さ』を取り戻す動きも起こっているのではないだろうか。
2000年代初頭、『ポスト・クラシカル』という音楽の新しい潮流が静かに始まった。
その音は、クラシックとは似て非なるものであり、クラシックの生楽器を多用しながら、そこにインディー・ミュージックの自由なアイディアを用いて作り上げた美しく耽美で音響的でスピリチュアルな、冒険的なインストミュージックである。
クラシックと違うのはそこに小難しさは無く、極めて聞きやすいという点だろう。
『ポスト・クラシカル』の代表は、ドイツ人のマックス・リヒターとアイスランド人のヨハン・ヨハンソンである。二人とも映画音楽で有名になった。
『ポスト・クラシカル』と呼ばれる音楽に僕が興味を持つのは、それが映画音楽的(劇伴音楽的)な要素をもっているからだ。
昔から映画が好きで、その映画に絶対無くてはならない存在として映画音楽があった。映画音楽、劇伴音楽には不思議な魅力がある。主役である物語を支える裏方でありながら、聞く人ひとりひとりの物語=人生に寄り添ってくれるような懐の深さがあり、内省的で、個人の魂に深く訴えかけるものがあるのだ。
しかし、映画音楽というのは、なぜか大衆化しなかった。それはそうだろう。なぜなら大衆が好む音楽というのは今も昔も変わらず「歌もの」だからだ。
そして、20世紀の音楽は、それぞれの音楽に境界線ができた。音楽はジャンル化され、知らず知らず階級分けされた。クラシックは高尚な音楽とされ、極めて特権階級的な音楽になり、民族音楽はマイノリティ化し、ジャズも大衆音楽から大人の音楽になり、一部の音楽ファンのものへと変わり、ポップスやロックやヒップホップ、ダンスミュージックは若者に愛された。
その中にあって、映画音楽や劇伴音楽はずっとひっそりと音楽界の陰で生き続けてきたように思う。僕の知る限り好き好んで、映画音楽や劇伴音楽にのめり込む人間は周りにいなかった。
しかし、2010年代になって様相が変わってきた。
YOU TUBEをはじめ、spotifyなどの音楽配信アプリが普及すると、音楽の聞き方が大きく変わった。
人々はジャンルの障壁、セールスの障壁、流行の障壁など全く無い世界で、自由に世界中の音楽を鑑賞できるようになった。
すべての音楽が平等に一律に、膨大な音楽の大海で浮遊している。その中で誰の意見にも左右されず、純粋に自分の琴線に触れる音楽を探すことができるのだ。
ここに、音楽の『親密さ』への回帰が始まる。今まで聞くことが様々な障壁によって難しかった敷居の高い音楽、一見高尚な音楽、眠そうな音楽、歌が無くて難しそうな音楽は、障壁が無くなったおかげでより身近なものになり、すぐに聞けるカジュアルなものに変わった。それによってそれらの音楽の良さも知ることが増えた。
新しい世代の人々にとっては、米津玄師もビリー・アイリッシュも、クラシックもジャズも民族音楽もクラブミュージックも映画音楽も、ジャンルに関係なくすべて同列に聞かれるようになった。
ただそこに心に「響く音楽」と「響かない音楽」があるだけだ。ジャンルなど現代では軽々と飛び越えることができるのだ。
だから、既存のジャンルを超えたところに(もしくはジャンルとジャンルの隙間に)、今まで無意識のなかで求めていた『良い音楽』『美しい音楽』『心に響く音楽』を現代の人々は見つけることができたのかもしれない。
その一つが『ポスト・クラシカル』と呼ばれる音楽だったのだと思う。
多くの人々が実は感じていたこと。
“クラシックは素晴らしい要素を多く持っているが、既存のクラシック音楽にある小難しさにはついていけない。もっと聞きやすく分かりやすくクラシックの良さを引き出した親しみを感じる音楽は無いのか。映画音楽が映画音楽という堅苦しい肩書きから解放され、もっと身近な(まるでリビングで毎朝聞くような)プライベートな時間と空間に流れる個人の心に直に訴えかけるような親密な音楽になったらいいのに”
そのような思いに答えてくれたのが『ポスト・クラシカル』の音楽家たちだったのではないだろうか。
『ポスト・クラシカル』と呼ばれる音楽家たちは数多くいる。
イタリアの作曲家でピアニストのファブリツィオ・パテルリーニはピアノ主体の音楽家だ。
彼のピアノが奏でるジョージ・ウインストンを彷彿とさせる印象的な旋律が素晴らしい。
彼自身はきっと『ポスト・クラシカル』などという呼び名などどうでもいいと思っているかもしれない。
ただ自分の心からわき出るメロディーを純粋に掬い上げているだけなのかもしれない。
それでも、彼のミュージック・ビデオの多くに写し出されるそれほど広くない自宅の室内で奏でられるピアノの鍵盤の響きを聞いていると、やはり現代の音楽が向かう『親密さ』への回帰を感じずにはいられない。
⬛文 : Nobuto Suzuki (unfaded)
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